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田無いづみ幼稚園の日々のできごと。

園長マサカズBlog

→masakazu blog← 281005【未来を創る子どもたちのために。。。】

子どもたちには

子どもたちの世界があります。

幼稚園という空間にもあります。

私たち大人も

間違いなく

同じ世界を

生きてきました。

子どもたちは

子どもたち同士

磨きあって生きています。

集団の中で、

覚えることは

決して楽しいことばかりでは

ありません。

1番、身につけていくこと、

身につけるべきことは、

なんでしょうか?

家で

お母さんと2人で

過ごすだけでは

身につかないもの。

それは、

我慢するということです。

たくさんのお友達と共に、

順番を我慢する。

食べたい気持ちを我慢する。

使いたいおもちゃを我慢する。

喋りたい気持ちを我慢する。

おうちでは

好きなときに

好きなだけ

使える。

喋れる。

食べれる。

いづみっ子の
運動会の練習をみていて、

リハーサルをみていて、

そう、ふと感じました。

そんなことを考えていたら、こんな記事に出会いました。

お時間がございましたら、
お読みいただけたら、幸いです。

ありがとうございます。

以下、転用。

子どもを「大切に大切に」しながらダメにする親

教師が「敬遠したくなる」子どもとは?
教師がつい指導を敬遠したくなる生徒がいます。乱暴者の子、学力の低い子、授業中に立ち歩く子……ではありません。「注意を素直に聞かない子」です。例えば、次のような態度をとる子です。

●言い訳をする

●ふてくされる

●泣く

●逆切れする

これらを繰り返すうちに、「注意されない子ども」になり、それはやがて「避けられる人」になります。

▼「避けられる子」の親の共通点

そうした子どもの共通点のひとつ。それは、親が「大切に大切に」子どもを育てているということ。端的に申し上げれば、子どもに対して適切に注意したり、叱ったりしない親です。

そうした親御さんは、しばしば次のようなことをしてしまいがちです。

●親と同伴時に、子どもにあいさつをさせない(来客、近所の人、訪問先、など)

●子どもに食事マナー違反を注意しない(口に入れたまましゃべる、食べ散らかして片付けさせない、食べ物で遊ぶ、出されたものに「嫌い、まずい」などと平然と言う、など)

●スーパーや電車内など公共の場での迷惑行為を注意しない(商品や用具で遊ぶ、床に寝転ぶ、走り回る、など)

●言葉遣いについて教えない(相手の立場に関係ない言葉遣い、「てめえ」「うざい」「きもい」などの言葉を本人、または親自身が使う、不適切なほどの大声、など)

●子どもが言う、他人に対する悪口や批判に同意する

●子どもの反社会的行為や暴力行為を注意しない

このように親が注意するのを怠ったり、教えなかったりするとどうなるか。または、仮に親が注意をしても子どもが無視して、それを親がとがめなかったどうなるか。

子どもは「自分の行為が認められた」という認識を持ちます。いわば、こうすれば大丈夫という「成功体験」となり、外の社会、例えば学校などで同じ振る舞いをする可能性が高くなります。

学校で問題行動する子の後ろ盾は、親
このような子どもは、学校で同じような行為をします。それに対しては、当然、教師から注意を受けるでしょう。すると、子どもは次のように思います。

「同じことしてもウチの親には叱られないのに、なんで?」

この矛盾に直面して、たいていの子どもは「この人、ウザい」と心の中で教師を切り捨てます。この結果、先に挙げたような、「ふてくされる」「逆ギレする」というような不適切な行為が現れることになります。人様に大きな迷惑をかけている事実があるにも関わらず、です。
「自分は悪くない。相手が悪い」という攻撃行為を開始するのです。

▼かわいそうな子をつくるのは親

この行為には大きな後ろ盾があります。親です。

不服や怒りを表明するからには、それが正当だという「裏付け」が必要になります。これまでの人生で自分に最も影響を及ぼしている親が「許している」というのは、鉄板的な裏付けだと子どもは思うのです。

そしてこの行動パターンは、学校外の社会全般で適用されます。結果、人から避けられてしまう「かわいそう」な子どもは、かわいそうな大人になってしまうのです。

なぜ『サザエさん』の「カツオ君」が理想か?

つまり、マナー面に関しては「ウチの親は何かと少しうるさい」と子どもが感じるくらいの方が、外ではうまくやれます。

親の目の前で起こす「傍若無人」な振る舞いを、その時・その場で正すことが大切です。「元気でやんちゃ坊主だけど、親は厳しいから外でのマナーはそんなに悪くない」というバランスです。理想は『サザエさん』の「カツオ君」のイメージでしょうか。

「私って口うるさい親かも」と悩んでいるぐらいの方が、社会的スキルの高い子どもが育ちやすいといえます。全国の「私って口うるさい親かも」と思っている皆様には、ぜひ安心してもらいたいと思います。

▼「とりあえず注意して、許す」親が一番危ない

電車の中やスーパーなど公共の場で我が子が迷惑行為をした時に、親は当然注意をします。その時の注意の仕方次第で、子どもの学校での態度と行動が決まります。

よくある話で「あそこのおじさんが怒るからダメよ」「お店の人に叱ってもらいますからね」というパターン。これは、言わずもがなですが、最悪の教育です。この場合、子どもにとって「悪者」となるのは「おじさん」や「お店の人」であり、親が「ダメよ」と言う理由は「あの人が怒るから」で、叱る人はやはり「おじさん」や「お店の人」です。ダメすぎます。また、「ダメよ」と言うだけで、放置してしまうのも×です。「言われたけど、OK」ということになります。結果、子どもはまたやります。

ただ単に注意するだけでなく、「叱る」時には「その時・その場で」「本気で」「理由を付けて」「願いも添えて」「見届ける」ということが大切です。「その時・その場」でないと、子どもは忘れます。

「本気」でないと、子どもは見抜きます。「理由も付けて」でないと、ある程度以上の年齢の子どもは納得できません。ここに「人から愛される人になって欲しい」というよな「願いも添えて」ということまでできたら、心の奥底に染みこみます。さらに「見届ける」とは、叱った行為が改善された時に、きちんと認めることです。ここまでして、やっと「叱る」という行為が完結したといえます。

子育て=しんどいこと、を回避する親はむごい

適切に叱られない子どもが、結果的に「むごい教育」を受けているということについて述べてきました。

なぜ、叱らない教育が急速に広まっていったのでしょうか。

叱るという行為は、叱る本人にとっても辛くて痛いものです。親が我が子を叱る、もしくは担任の教師が生徒を叱るという行為は、いわば自己批判です。それはけっこうしんどいことで、正直、逃げたくなることもあるでしょう。一度叱った以上、改善するまで見届けねばなりませんし、叱る過程で嫌われることもあります。逆恨みされることすらもあります。だから、覚悟が要ります。

そんな骨の折れることとなると、つい他人にやって欲しくなってしまいます。

しかし、子どもを他人に預けて「教育をしている」とは、とても言えません。教育とは本来、手間暇がかかるものです。どんなに素晴らしい先生のところに通わせても、家庭教師をつけても、結局、親の背中です。

▼叱り方の「手順」を知らない親たち
大スターになるような人の親がまたすごいという話はよく聞きます。そうした時、親の社会的地位や収入などの面が子どものスター化を下支えした、としばしば指摘されますが、私はそんな「経済条件」より、ある時は無言で、ある時は仕草で模範や社会の規範を示す「親の背中」が子どもを育てているのではないかと感じます。

昔も今も、「子どもを大切に育てる」という過程の中に「きちんと叱る」という行為は必須です。それは、親の思い通りにならないと手を上げたり罵ったりするというような、虐待とは全く違います。きちんと注意したり叱ったりしてあげることで、子どもの適切な行動が増え、他者へ迷惑をかける頻度が減ります。結果的に、親が声を荒げたくなるような場面が減ることにもつながります。

さらに、ひとつとても大切な点があります。

「叱る」には、前段に「教える」「注意する」という行為が必要ということです。教えもされていないことをいきなり叱られたら、反抗心を生みます(例えば、上司に教えられてもいないことをいきなり叱られたら、腹が立ちますよね)。

つまり、「知らない」という段階には、まず「教える」です。そして「教える」をした上でも不適切な行為をしたら、次は「注意」。それでも聞かない時、「叱る」という段階に入るのです。まどろっこしいですが、叱るという価値ある行為は、楽ではないのです。

子どもは、国の宝です。

宝を守ることは、容易ではありません。
覚悟を持って、子どもたちが本当に「大切」に育てていかれることを願っています。

[千葉大学教育学部附属小学校教諭 松尾英明=文]